[พ]Another ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

映画(ちょいエロ・ゾンビ・ホラーなど)の感想や「おっぱい愛」など、内容が異なるもうひとつの[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

[พ]「官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか」/タイトルに釣られたw フラートってなんだよ @kun_maa

「官能教育」・・・なんて魅惑的なタイトルの本だろう。

おまけにサブタイトルは「私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか」とある。

さらに帯には「愛人論」の文字がデカデカと書いてある。これは即買いでしょ。

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ところが、これがなんかちょっと思っていたのと違うんだなあ。

タイトルからは官能教育論的な考察を綴った本だという印象を受けたんだけど、強いて言えばこれからの恋愛についての著者の願望を前面に出したレッスンの本って感じかな。

まず最初に恋愛の概念は時代や文化によって異なったり、変化したりするものだよってのを、様々な民族の文化や文学作品、歴史上の出来事などを紹介しながら説明していく。

そういう中で「愛人」というものも昔とは概念が違っているんだよって書いてる。

権力や富を持っている男が独占的に女性を占有という意味合いの「愛人」(いつの時代だよ?)から、今は夫婦(恋人)関係の外で交際し、理解し合い、愛し合う相手のことを「愛人」と呼ぶようになっているって書いているけど、なんかそんなの今更って感じ。

また、「愛人」は男の専売特許じゃなくて女だって「愛人」を持つ時代になっているって言うけど、実感としてはそんなの当たり前だよね。

そして、繰り返し述べられているのが現在の結婚制度に対する疑問。

結婚したら死ぬまで相手に尽くし、他の異性には目もくれずに過ごし、家族に看取られて死ぬというのが、これまで当たり前と思われてきた。しかし、そういう一夫一妻制を支える倫理観は80年代以降徐々に破綻しつつある。いまや三組に一組が離婚するような世の中なのだ。結婚そのものについて考え直さなければならない。もともと人間は生きている限り人を愛するようにできているわけで、一人を選んだら一生他の相手を拒絶しなければいけないというほうが不自然だったのではないか。 (P.23)

だから、一夫多妻制もありだよね、不倫も即責められるべきものではないよね、セックスを無理に抑圧して偏狭な道徳規範に閉じ込めるのって不自然だしよくないよねってことにも論は及んでいく。

じゃあ、これからの男と女の関係性はどうなっていくのか。

著者が提示するキーワードは「フラート」という概念だ。

フラートについては、これまでもしばしば触れてきたが、恋愛そのものではなく、ちょっとした恋の前段階、恋の戯れを指している。たとえば、視線のやりとり、誘惑、男に媚びること、ちょっとした接触、人目を忍ぶくちづけ、身体を密着させたダンス、気どった恋の駆け引き、「相手の注意を引き、欲望をかきたて、嫉妬心を刺激する行為」、それらすべてを指している。(P.168)

簡単に言うとセックスや結婚が恋愛の素晴らしさなのではなくて、その前段階であるさまざまな「ときめき」こそが恋愛の甘い果実なんだよって話。

だから、恋におちてすぐに相手を独占しようとし、身体の関係を結ぼうと急ぐことは恋の本当の意味での楽しみを放棄していることに他ならない。もっと友だち以上恋人未満のワクワクするような気持ちを楽しむことが大切なんだってこと。

僕らは人を好きになるとすぐに「恋愛」という言葉でひとくくりにしてしまう傾向がある。しかしながら、もしかしたら相手に好意を持つところから恋愛に至るまで、そこにはとても振れ幅の大きな世界が広がっているのではないか。そこを速足で通り過ぎようとしたり、すぐさまクライマックスを求めようとしたりすると、豊かな果実を味わえないまま終わってしまうのではないか。キス、抱擁、手をつないだり、息を吹きかけたり、身体の一部をふれあったりすることもフラートの一種だけれど、果たしてそれらをセックスへの導入部以上のものとして考えることはできないのだろうか。(P.169)

そして、これからは結婚していようがボーイフレンドがいようが関係なく、だれもがフラートを楽しむ時代がやってくると著者は言う。「不倫」や「浮気」はハードルが高いけれど、フラートの関係ならばお勧めなのだと。

 

確かに、誰かを好きになってちょっとしたことで胸のときめきを感じることはとても楽しいものだし、あのときめきこそが恋愛の醍醐味なんだっていう主張には頷けるけど、だからといってセックスをしてしまったら、キスをしたり、抱き合ったり、手をつないだりといった胸のときめきが永遠に失われるという著者の主張には「そんなことないよ」って疑問を抱かざるを得ないし、フラートな関係に至っては、「不倫」や「浮気」という言葉が持つ後ろめたさをオブラートに包んで罪悪感を誤魔化すための著者の願望を含んだ詭弁にしか聞こえない。

そこからは、恋愛のもっと生々しいドロドロとした部分が意図的にきれいに取り除かれているように見える。

言葉をフラートに言い換えようと、恋人以外とキスをしたり身体をふれあったりということを自分や自分のパートナーに許すことができるのか。

セックスさえしなければ何をしてもかまわないのかという感情的な反発を感じるのは、僕の考え方が古いからなのだろうか?

どうしても著者の主張には違和感を感じるんだよなあ。

「官能教育」というタイトルを掲げて、結婚制度そのものへの疑問を何度も提示しながら、最終的な主張が「われわれが求めているものは恋人でも友だちでもない。もっと全人間的なふれあいなのではないか」(それがフラートな関係ってこと?)っていうところになんか「おっさんがいろんな罪悪感なしに若い女とフリーに交流したい」って主張が前面に出ているだけで、本来の主題がボヤけてしまっているような気がして、なんともスッキリしない読後感が残った。 

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